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1986年度 均等法第一世代の就職活動

このとき私は、立教大学法学部法学科の4年生でした。

3歳下の弟が浪人し、ちょうど大学の入れ替わりとなるため、郷里の松本市に戻って就職する約束でしたが、東京から情報を集めてみても地元には満足の行く企業が数少なかったため、東京に残ることに決めました。

私の属していた部活動は体育会自動車部でしたが、体育会本部の役員もしていたことから縁あって写真部の先輩とのつながりができ、
「均等法ができて、ウチの新聞社でも初めて女子写真記者を採ることになった。お前のようなヤツにはいってほしい」
と誘われ、すっかりその気になって、実家から一番レフカメラを送ってもらい、撮影の練習に励んだりしていました。他の会社の研究などまったくしませんでした。筆記試験で通った10名で実技選考を受けた7月末、その晩に来るはずの採用の電話はかかってきませんでした。

しかたなくその翌日、電話で誘われていた、全く興味のない銀行系システム開発会社のSE職説明会に出向きました。外の人と会うことも外出もなく、ピンクの制服を着て内部の仕事をしているだけとわかりました。また、のどが渇いて自動販売機に100円入れたのに商品が出ず、現金も戻らなかったので、ほとほと嫌になりました。その100円は女性社員が立て替えて戻してくれたものの、
「もう来ません」
と明言しました。適性試験の結果、SEの素養が高かったからもったいない、と言われました。

気を取り直して大学の就職部とも相談し、「聞いたことのある企業」「営業職」という観点から、新たにアプローチを始めました。

女性の営業職を多く採用することで有名であったリース会社には、クレペリン検査で不合格となりました。名古屋に本社を置く予備校とは、残念ながら役員面接の日程が折り合いませんでした。最後まで進んだ大手IT会社からは「SEで考えてほしい」と強く言われましたが、こちらも営業をしたかったので徹底的に難色を示し、そこで終わりました。

他大学自動車部の男友達から紹介された小規模な翻訳ソフトウエア開発会社を訪問し、筆記試験合格、次は役員面接と、とんとん拍子で進みました。競技は異なるものの、社長とは体育会という共通点もあって話が弾み、その日のうちに内定が出されました。

実家の両親は、知名度の低い会社でも、自分で決めたのならそこで一生懸命やるように、と応援してくれました。