1987年度 新社会人生活
大学最後の春休みにはガイドブックの日常会話をなんとかさらって、初めての海外、韓国に卒業旅行をしました。宿も決めずに飛び出して9泊10日。各地を巡り、いろいろな人と話し、テレビや街角で気に入った歌はレコード店で歌ってみせて、カセットテープを買って帰りました。
4月、翻訳ソフトウエアの開発会社に入社し、希望通りシステム営業部に配属されました。システム開発部と合わせて十数名の同期生と共に新社会人生活が始まりました。
営業兼インストラクターということで、OJTによる指導を受けながら日英翻訳ソフトウエアのオペレーションを学び、先輩についてお客様を訪問して回りました。
日本語を上手にアレンジしてソフトに入力することで、まあまあの英語を導き出すことができるという、自分の興味関心にも沿う仕事でした。さまざまなお客様にお会いし、職場を見ることで、いい刺激を受けていました。
また、社内には日韓の翻訳ソフトウエアもあり、隙間時間にこちらの操作も習って、おっかなびっくり、ハングルの入力を身に着けていきました。
ところが7月のある日、人事異動通知が出され、「営業部長秘書」という名の仕事につかされました。その業務内容は、営業部員の交通費精算、コーヒー代集め、資料のセッティング……秘書というより、はっきり言って雑用ばかり。どう考えてもローテーションで他者にこの仕事が回っていくとは思えませんでした。その上、しばらくして営業部長は転職し、去ってしまいました。
絶望に打ちひしがれ、胃が痛むこともありました。上司に当たる人物に訴え、社内の先輩に相談もし、社長に直訴もしましたが、全くらちがあきませんでした。
こんなところにいてはいけないと、早々に転職を考え始めました。一人暮らしの身、アパートで自活していくことが第一なので、次が決まらないのに無計画に退職するわけにもいきません。密かに新聞記者(今度は一般記者と校閲記者)の入社試験も受け始めました。
そうこうするうち、給与の支払いが時々遅れるようになってきました。何かの手違いがあったのだろうと、あまり気にもとめなかった、23歳の甘ちゃん新人でした。