1988年度 初めての転職
4月、後輩となるべき新入社員は一人もはいりませんでした。相次ぐ送別会。給与の遅配が翌月初めにまで及ぶこともありました。そして、夏季賞与は支払われませんでした。
これではアパート代の支払いにも差し支えます。
人が減ったために、私に雑用ばかりさせる余裕がなくなり、元のインストラクターの仕事もするようになってきましたが、こんな会社にもう未練はありません。
「ここにいては暮らしていけない」
営業に出るふりをして面接試験を受けに行ったり、親族の葬式をでっち上げたりして、転職活動をしました。新聞社の入社試験は、たびたび最終面接までは進んだものの、とうとう壁は破れませんでした。
新卒で入社できなかった大手リース会社からは再びクレペリン検査で落とされました。ところが、その子会社である自動車専門リース会社では異なる適性試験を実施していたため、運良く高得点を取り、内定を得ることができました。
そのときの募集は、全国転勤型総合職コース(女性はほとんどいない)への配属という前提でした。どうせアパート暮らしだから、社宅に住まわせてもらった方が得、と思い、面接でもそう答えました。
満を持して退職願を提出。社長から慰留されましたが、
「なぜ不満を訴えた時に担当替えをしてくれなかったのだ」
とかみつきました。
冬季賞与は、明細が配られただけで、とうとう入金されませんでした。
新しい会社では、幸いすぐに地方に異動することはなく、東京の営業部に2月半ばから勤務することとなりました。
転職の合間に少し余裕があったので、二度目の韓国旅行をしました。NHKラジオの半年サイクルのハングル講座を4回聞き、歌も懸命に覚えて口を動かしていたためか、かなり話せるようになっていたことに自分でも驚きました。
新しい職場で、自動車リースという商品を扱うこととなりました。当面は先輩から引き継いだ、既存顧客の入れ替え等のフォロー。それでも、金利や型式など、新しい知識を身につけねばならず、しばらくはたいへんな思いをしました。
笑い話にもなりませんが、転職した当月、前の会社の最後の給与がお約束のように遅れ、新しい職場の当月払いの給与が先に入金されました。