1989年度 転落そして再起
転職先の自動車リース会社では、全国転勤型総合職、当面は既存顧客のリピート営業担当ということでスタートしました。残業は多かったものの、まずは順調な滑り出し、と感じていました。
ところが、睡眠不足や疲労の蓄積と急激な気候の変化が引き金となり、完治していなかった小児喘息の発作を数年ぶりに起こしてしまいました。無理して出社したのもよくなく、症状が悪化しました。頼れる主治医も決まっておらず、一人暮らしのため、回復が遅れました。
両親は電話で「お前一人くらいならなんとかなる、戻ってきなさい」と言いましたが、東京で働き続ける道を選びました。
会社から「喘息の持病を隠していた」という受け取られ方をされたのが、悲しかったです。負担の少ない部署に移してもらえたら、と申し出たところ、一般職への変更、それに伴う降給、制服を着て事務的な仕事をするように、という内示が出されました。
直属の上司である男性主任からは「アンタもうだめだよ。置いてもらえるだけありがたく思いな」と言われ、会議室に一人こもって泣きました。
不幸中の幸いといいますか、移った先の小さな部署は、物腰の柔らかな男性課長代理、2歳下の女性がいて、だんだん親しくなりました。業務の質、量も自分で工夫やコントロールができる内容で、残業せず和やかに過ごすことができました。
営業部署の先輩男性が紹介してくれたアレルギー専門医も、腕のいい好人物で、治療への取り組みをほめ、少しずつ通院や薬を減らせるよう導いてくれました。
中学1年生の時に、目も開かないうちに川に捨てられたのを拾ってきてミルクを飲ませて育てた実家の犬が、11月23日、12歳で息を引き取りました。弟はちょうど帰省しており、自分だけが立ち会えませんでした。その日は朝から泣き崩れ、何もする気になれませんでした。
体調は上向いてきましたが、異動の経緯を振り返り、この会社にいては出世やスキルアップは難しいと考えました。転職を念頭に置き、資格の勉強に励むことにしました。自動車免許と英検3級しか持っていなかったため、損保代理店普通資格、日商ワープロ検定3級、秘書検定2級、英検2級と次々に取得しました。
大学時代の部活の先輩に偶然会った時にそのような話をしたら、「僕も体を長く壊していたことがある。でも、何年も勤務した実績があったから復活できた。君の場合は日が浅かったから、今の会社での再起は無理かもしれないね」と、転職紹介会社に勤める友人に連絡してくれました。
そして、転職紹介会社経由で面接した会社に韓国語を生かした転職が決定しましたが、社内の自己申告制度を利用して「体力は回復した、社員教育を担当したい、具体的な方策も考えている」と強くアピールもしておいたことがきっかけで、地域限定型総合職に転換し、総務部で研修担当をすることとなりました。給与も、全国転勤型総合職には及びませんが、また上がりました。
転職先にはお詫びをして断ることにし、代わりに韓国語を同程度に使える友人を紹介することで丸く収まりました。