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2004年度 サクラサク

夫の言いつけに従わず、再び法科大学院を受験することにしました。

他大学の後輩男子から結婚式の招待状が届きました。長く独身でいたので、心配していました。その日取りは、日弁連試験当日でした。事情を話して欠席することにしました。

意地でもいい点を取らねばと、電車の中や昼食の待ち時間を利用して、適性試験の勉強に励みました。

その甲斐あって、日弁連試験は241点、12249人中509位という好成績を修めました。センター試験は平均点の5点上でぱっとしませんでしたが、日弁連の点数があれば戦えそうです。

前回はよく考えずにあわてて書類を作成し、内容が薄かったことが悔やまれました。キャリアコンサルタント講座での学習を生かし、先方が面接に呼びたくなるような志望書作成を心がけました。目指す法曹像を明確にし、女性や労働者の味方になりたいと強調しました。

9校に出願しました。今度は順調に書類選考に通っていきます。週末は論文試験や面接に出かける日々を送りました。韓国語と日本語教師で身につけた異文化コミュニケーション能力、そしてキャリアコンサルタントの素養や法曹と共通する倫理感覚は、面接で高く評価されていると感じました。

9月末、左足の付け根に突然違和感を覚え、それがだんだん痛みに変わっていきました。

横浜の方で若年求職者向けキャリアコンサルティングの仕事がありました。担当したグループは、その日初めて集まった顔ぶれにも関わらず、たいへん共感力が高く互いの心も通じ合い、見る間に成長し、最後に自然な声かけも出るほどでした。なかなか得られない、充実した時間を過ごすことができました。しかし、足の痛みは満足に歩けないほどになっていました。

会社を休んで出かけた大学病院では一日がかりでMRI検査まで受けたものの、急性の股関節炎と診断されただけで、何も治療してもらえませんでした。タクシー乗り場まで車いすで移動して、やっとの思いで帰宅しました。

翌日、激痛のあまり、座れず、立てず、歩けない、寝たきり状態となりました。金に糸目をつけず遠方のハリ治療院にタクシーで通い、ようやく快方に向かい始めました。結局会社を1週間休みました。

この間、母校での論文試験がありました。不戦敗などしたくありません。なりふりかまわず入試事務局に電話で事情を訴えました。試験前日の土曜日、夫に病院の診断書を取りに行かせてFAXしたところ、職員による車椅子での送迎と、寝転んだ格好での論文記述が急遽、許可されました。

こんな状態で書いた論文が通り、面接の通知が届きました。喜びもひとしおだったのですが、指定された時刻が他大学の論文試験と重なりました。法科大学院入試では、適性試験の点数で足切りするだけでなく、最終段階で再検討することが多いと言われています。母校はセンター試験のみを用いますが、もう一方には日弁連の結果を提出してあります。つまり、合格可能性は後者の方が明らかに高いわけです。限られた日数の中、本当にさまざまな人に相談しました。論文試験で親身な対応をしてくれた母校を諦めるにはしのびなかったのですが、断腸の思いで、辞退の詫び状を書き送りました。

ほどなくして、青山学院大学からの合格通知を手にすることとなりました。前回は出願しなかったのですが、今回はなんとなくご縁がありそうな感じがしていました。心から嬉しく思いました。すぐ入学手続きを済ませました。

その後、母校を諦めて受験した大学にも合格しました。法曹界へのパイプや現行司法試験での合格実績という点では、法律学校を前身とするアドバンテージがあり、ここでもまた迷いました。結局、母校と似た校風、きれいなキャンパス、通学のしやすさ、教職員の対応と雰囲気のよさに魅力を感じ、青山学院大学に通うことにしました。

12月、三度目の正直で韓国語能力試験の6級に合格しました。とうとう最上級を極めました。実は、この試験日は某大学院の入試と重なっていました。悩んだ挙句に保険のつもりで出願しておいたところ、案の定、入試の方は書類選考で落ちた、というのが裏事情です。

18年間、会社員として仕事をしてきましたが、退路を断ち、これから3年間、学業に専念することとなります。無職無収入になるのは限りなく不安です。

しかし、家族や周囲の人々が応援してくれています。3年後の新司法試験に向けて若い人と一緒に全力で学ぶ決意をしました。

足はなかなか元通りにはなりませんが、ハリ治療を続け、全身の状態を改善するような施術をしてもらっています。長年の疲労や体の歪みからきたものではないか、と言われました。これからは日々の暮らしの中で体をいたわりつつ、鍛えていこうと思います。