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2007年度 九度目の正直

春休み、6年生になった息子とその友達を連れて東京地裁の裁判傍聴に出かけました。裁判所も休み中なのか法廷が少なくて、選ぶほどの数がありませんでした。覚せい剤事案の初公判を見たような記憶があります。

小学校では容赦なく平日の午後などに保護者会を開催します。講義と講義の合間に最寄り駅まで戻って出席する、という離れ業をやってのけました。これも、学校と自宅が近いからできたことです。

息子は6年生になったら運動会の応援団長になりたいと願っていました。4年、5年と団員を務め、みごと紅組応援団長の座を射止めました。団長は伝統的に袴を着るのですが、息子は学ランが大好きなので、夫がオークションで探し、特別に手紙を書いて担当の先生の許可を得ました。体重29キロの応援団長の誕生です。

松本深志高校の東京同窓会に初めて参加しました。自分からアプローチしたいきさつもあり、いきなり受付の手伝いからです。200名規模の着席パーティー、同期生もたくさん参加してくれました。

mixiの「漢字検定1級・準1級」というコミュニティでオフ会を開くことになりました。ところが、未成年者が一人いると正直に申告したばかりに、飲み放題のコースなのにアルコールを入れられなくなりました。しかたなく、アルコール抜きに切り替えました。それでも、検定や勉強のことで話は自然と熱を帯び、あるメンバーは「周囲には漢字が苦手で嫌いな人ばかりなのに、今日は漢字好きな人がこんなに集まっていて嬉しい!」と感激していました。

ところで、法科大学院最終学年では、法律事務所に出向くインターンシップと、模擬裁判のいずれかを履修することになっています。マイペースでできるインターンシップを希望しましたが、模擬裁判組に割り振られました。メンバーで協力し合って、民事と刑事、両方の裁判の準備をしました。6月30日土曜日、刑事事件の模擬裁判が開催され、夫と息子も呼びました。私はアヤシイ中年女性の証人役、派手な化粧をして、はすっ葉な話し方をしました。後で、指導教官がこんな風に言っていたと人づてに聞きました。「あの人は芸能界に行くべきだった」。

資格おたくのmixiオフ会も開きました。息子も漢字検定に複数合格しているということで、参加を許されました。楽しくやっているところへ、一時帰国中のパチモン学者が登場。初めて彼を見た息子は、窒息しそうなほど笑い転げました。後で聞くと、「学者というくらいだから、さぞかし立派な人が来るかと思ったら、ふざけた顔の人だった」とのことです。

10月19日、青山学院短期大学にベアテ・シロタ・ゴードンさんがやってきました。今の日本憲法に男女平等の理念を入れるために尽くしてくれた方です。憲法制定に携わっていた頃、彼女は21歳でした。そのことについてこう語りました。「当時の21歳と今の21歳は、成熟度が違います。私は日本の女性が抑圧されている状況をなんとかしたいと考え、意見具申をしました」。ベアテさんは2012年に亡くなりました。一目会えてよかったです。

秋の漢字検定で、息子は3級(中学3年レベル)に合格しました。準1級にここまで落ち続けた私も、息子が迫ってきていることに危機感を覚え、本腰を入れて勉強し、とうとう合格証を手にしました。

11月、立教大学の卒業20周年行事がありました。卒業2年目から校友会の委員や学年代議員をしているご縁もあり、幹事として運営に携わりました。

亡父には6人の姉と弟が一人いました。そのうち、松本在住の四女の伯母が1月6日に亡くなりました。看護師として自立し、独身を通した人でした。たくさんいた姪や甥、その子どもたちまでかわいがってくれました。申し訳なかったのですが、大学院の試験があったため葬儀には出られず、四十九日に出席するのがやっとでした。

1月29日、行政書士合格通知が届きました。実に連続九度目の受験でした。あきらめずに受け続ければいつかは受かると、身をもって証明しました。

2月、区立中学への進学を決めている息子を説き伏せて、公立1校、私立1校の中学受験をさせてみました。準備は何もしません。せっかく東京にいるのだから、経験しておくのもいいと思った程度の動機です。当然、不合格です。「そんなつまらないことに3万円も出すのか!」と実家の母から叱られました。

大学院の方はいくつか再履修がはいっていたおかげで単位がぎりぎりでした。綱渡りのようにクリアし、卒業が決まりました。仲良しは後期の必修科目を落とし、留年が決定しました。